演出ノート

  ストアハウスカンパニー・演出 木村 真悟
 

『Remains』
 

「役について」 
Remainsには、いわゆる一般的な演劇においていわれている「役」がありません。
私たちが生きている空間には様々な役があります。たとえばそれは、父親、母親、祖父母、兄弟、夫、妻、子供、友人、知人、同僚、上司、部下、先輩、後輩と呼ばれたりします。
しかし、Remainsにはそれらの役割も役名もありません。
Remainsは、いっさいの「役」を放棄した空間です。あるいは、奪われた場所です。
私たち人間は、社会的な動物であるといわれたりします。社会的な動物であるということは、社会的な自己を持っているということです。社会的な自己とは、社会の中での役割を引き受けることが出来る自己ということです。
Remainsは、社会的な動物といわれる人間像を疑っています。
Remainsは、そこに生きる人たちに、ただひたすら動物であれと囁き続けます。
動物であろうとする人間には、社会的な自己が自分自身に強要する身振りや表情は必要ありません。動物的人間にとって必要なのは、個性ではなく個体差です。それは頭髪であり、頬骨であり、肋骨であり、背骨であり、股関節であり、陰毛であり、性器であり、それらを包み、あるいは支える、筋肉の違いです。
私たちは、社会的な自己における身振りや表情を個性だと思って生きています。Remainsはそのことを強く疑っています。
私たちは、社会的な自己、つまり個性は自らが勝ち取ったものだと錯覚しています。しかし個性とは、社会が(国家や、民族、様々な共同体)個体を管理しやすくするために発明した概念にすぎないことをRemainsは知っています。政治家がテレビの前で国民の皆さんと呼びかけるときの胡散臭さはそこにあります。
まるで国民一人ひとりに個性があるかのように語りかけながら、その実、彼らは税金を黙って払ってくれる従順な羊な様な国民しか欲していない。つまり個性とは、人間を家畜化し搾取していることを悟られないための隠れ蓑でもあるのです。
また、Remainsは演出家が、俳優の個性を尊重して作品を作っているというような身振りも拒否します。俳優一人ひとりの個性を尊重するという演出家のほとんどが、政治家と同じように俳優を家畜化することを望んでいるということをRemainsはよく知っています。
Remainsは、役を放棄し、あるいは奪われ、人間を徹底的に個体としてみることを強要します。
それは自らを家畜化してしまった人間の感覚、感情ではなく、動物としての人間の感覚、感情を感じてみたいというRemainsの欲望に他なりません。
Remainsの虚構の水準はそこにあります。

 
『Ceremony』
 

舞台の上には古着の山。
あたり一面に散らばった、古着の数々。
古着とは、他者の記憶である。あるいは、他者の歴史である。
 
彼らは、古着の上を歩きまわる。
彼らは、古着を踏みつける。
彼らは、古着の中を転げまわる。
彼らは、古着とともに舞い踊る。
 
彼らによって、様々に生み出される、風景の数々。
 
舞台の上にはあいも変わらず、古着の山。
彼らによって引きちぎられ、あるいは丸められ、放り捨てられた、古着の数々。
古着とは、彼らの関わる世界である。あるいは彼らの関わる現実である。
 
彼らは、世界の中に入り込む。
彼らは、現実の中に融けてみる。
そして、彼らは、発酵した世界の中から抜け出でる。
 
彼らは、何も表わさない。
彼らは、何も説明しない。
彼らが欲しているのは、ただ生きることだ。
生きるとは関わることだ。
目の前にある世界に。
そして、現実に。
 
彼らによって執り行われる儀式とは、
彼らが世界に、あるいは現実に関わるための方法である。
おそらく笛や太鼓は必要ではない。
必要なのはそれを見ているわれわれである。

 
『Territory』
 

ゴミの山。あるいは廃墟。
いつのまにか現れる5人の旅人。
 
歩く
歩く。歩き続ける旅人。列、列、列。列をなす旅人。
 
踏みつける
踏みつける。踏みつける。踏みつける。
踏みつけられるゴミの山。踏みつけられる、廃墟。
繰り返し踏みつけられることによって生まれる数々の意味。
踏みつけられることによってさらに広がる、ゴミの山、あるいは廃墟。
 
倒れる
ゴミの中に倒れる、彼/彼女。
ゴミの中から立ち上がる彼/彼女。
ゴミの山から、逃れるために、ゴミの山に引き戻されるように、
倒れる。立ち上がる。倒れる。
 
転がる
立つことも、倒れることにも疲れ果てた、彼/彼女の身体は転がり始める。
あてのない転回。行方知らずの転回。展開など求めることのないただの転回。
転がりながら、彼/彼女の身体にまとわりつく無数のゴミ。
肥大する身体。ゴミの中に吸収される彼/彼女の衣服。
必然的に現れる彼/彼女の裸体。あるいは肉片。
 
つつむ/つつまれる
ゴミの中のビニール。ビニールの発見。
裸体の彼/彼女。
ビニールで自らの身体をつつむ、彼/彼女。
ビニールによってつつまれる、彼/彼女。
ビニールの中の半透明の彼/彼女
転がる
半透明の彼/彼女は再び転がる。
ゴミの山から脱出するために、ゴミの中で生きるために、ゴミの中で死ぬために。
転がり、
ぶつかり、
行方を探して、
行方を消すために、
血だらけの、
血みどろの、
戦いにも似た転がるという行為。
転がる。転がる。転がるという行為の数々。
 
立つ
力尽きたビニール人間。
立ち上がる彼/彼女。
立つことは、生きることなのだろうか、それとも死ぬことなのだろうか。
 
破る
破られるビニール。こなごなにずたずたに、引き裂かれるビニール。
曝け出される彼/彼女の裸体。
裸体という意味。
 
着る
散乱したゴミの中から、誰が着たともわからない衣服を拾い、身に着ける彼/彼女。
人はなぜ衣服をまとうのだろう。
あるいは人はなぜ裸なのだろう。
この服を着ているのは私なのだろうか。
この服を着ているのは誰。
衣服によって消される肌。
衣服によって意味付けられる身体。
 
歩く/倒れる/転がる
再び列をなし歩き始める、旅人達。
どこへ行こうとしているのか。
行く先は、彼/彼女にもわからない。
まして列にもわからない。
いったいどのくらい時間がたったというのか。
一人また一人と倒れ、離脱し、立ち上がる。
いったいどのくらい時間がたったというのか。
歩き続ける彼/彼女。
倒れる彼/彼女。
転がる彼/彼女。
繰り返される無限の時間。

 
『縄』
 

「風景からの脱出」
 
舞台の上に生み出されるさまざまな風景

 どこからか現れる俳優たち。舞台にはたくさんの縄。彼らによって動かされ、蠢き、
ざわめき、形を変えるたくさんの縄。
 彼らは縄を動かす。
 彼らは縄を動かし続ける。
 動かすごとに生まれる新たな風景。
 やがて彼らは、彼らが作り出した「風景」の中に閉じ込められている自分自身に気づく。
 
風景との対話
 
 いつしか彼らは、自分自身が生み出した風景と対話を始める。
 舞台には、彼らが生み出し、作り上げた風景の他には何もない。
 彼らは対話を続ける。
 彼らはお互いにほとんど言葉を交わすことはない。また声を発することもない。
 なぜなら、お互いに言葉を交わし声を出した瞬間に、彼ら自身が風景の一部になって
しまう恐れがあるからだ。
 風景の中に閉じ込められた彼らは、風景の中に溶けてしまうことを拒否するために、
言葉を失い、声を失った存在として舞台の上に立ち続ける。
 風景が偽物なのだろうか。それとも偽物は旅人を演じる彼らなのだろうか。
 
繰り返される脱出
 
 やがて、彼らは舞台から、つまり彼らがつくり出した「風景」からの脱出を試みる。
 例えば、彼らは風景を壊そうとする。
 壊すたびに生まれる新たなイメージ、新しい風景。
 彼らは幾度も「脱出」を繰り返す。
 壊しつつ生まれる新たな風景の数々。
 幻影の数々。
 ほとんど不毛ともいえる、彼らによって繰り返される「脱出」という行為の数々。
 
現実はどこにあるのか
 
 リアルな、生々しい現実を取り戻すために、彼らは自らが生み出した風景を、幻影を、彼ら自身による絶え間ない対話の果てに切り裂く。
 その瞬間を、現実を生きる私たちにとってのリアルな現実として、彼ら自身が感じる
ために。 

 
『箱』
 

「箱」は、箱が、動き続ける芝居です。
そうはいっても、舞台の中に、何らかの仕掛けが施されているわけではありません。
舞台に登場するいわゆる俳優とか、パフォーマーと呼ばれる人々が、箱を動かし続けます。つまりは人海戦術です。
 
 舞台の上には、幅90cm、高さ30cm、奥行き30cmの、20個の木製の箱が置かれています。箱の大きさや材質や個数には、ほとんど意味がありません。
 現在50歳の演出の木村氏によると、箱は、氏の故郷である青森で、子供の頃よく見かけたりんご箱に似せたという話があることはあるのですが、彼らにとってそんなことはどうでもいい話です。
 彼らは他人の記憶や歴史にはほとんど興味がありません。というよりは、知らないのです。
 
 彼らは、目の前にある、箱を動かします。
 彼らは、箱を運びつづけます。
 
 彼らによって動かされ、運ばれるたびごとに、「箱」は、「壁」や、「道」や、「穴」や、「門」になります。もちろん彼らは「箱」は「箱」であることは知っています。彼らは、「壁」や、「道」や、「穴」や、「門」が幻想であることは知っているのです。
 箱を動かし、運び続ける彼らの姿は、いわゆる俳優とかパフォーマーではなく、まるで労働者のようです。いったい、誰のための労働なのでしょうか。
 
 彼らは「箱」を動かします。
 彼らは「箱」を運び続けます。
 そして、「箱」は、動き続けます。