劇評集

曖昧な身体をめぐって
―シアターカフェ・課題原稿より―
木戸侑児
 
 いみじくも西堂氏は多少の苛立ちを抑えながら言った。「演劇が身体表現であることは分かりきっている。その根本に立ち返ることが、かえって身体を問うことにはならないのではないか」と。これは、アジアの劇団とともに、今年で第3回を迎えた「フィジカカルシアター」4日目の『曖昧な身体をめぐって』と題された座談会でのこと。「フィジカカルシアター」の発信地ロンドンから帰国したばかりの西堂氏の提案が宙吊りになったまま、噛み合わない各劇団の報告に終始していたときのことである。西堂氏は会の口火を切るにあたり、ロンドンの演劇状況の報告とあわせて、フィジカルシアターを
  1.テクストの不要  2.俳優のあり方の変化  3.観客との関係のつくり方  4.集団性と即興性
と定義したうえで、その展開として「言葉を考えるために身体を用いる演劇」をひとまず提案し、そして、その反応を待った。そこには西堂氏のアジアに向けられた視線が明らかにあった。ロンドンから発信され日本に伝播した新たな演劇運動を、「いま改めて、なぜ、身体なのか」と自問した彼は、同じ意味合いにおいて「アジアの演劇のいまは何か」という問いを立てたにちがいない。絶えずヨーロッパのコンセプトを追随せざるを得ない日本の演劇状況の中で、「身体」をキーワードにアジアの演劇を議論することはそのまま日本の演劇に対する批評になり得るからである。もちろん、ヨーロッパ対アジアという二項対立ではなく、各劇団の個別性に焦点が当たらなければならない。しかし、それぞれに散在するアジアを見出すことは同時に、ヨーロッパに汚染されたアジアを目の当たりにすることでもある。冒頭で西堂氏が言いたかったことも、まさにそのことであろう。つまり、「いま改めて身体を問う」ことの切実さは、なにより「情報に汚染され続ける身体」を見出すこと、そう言いたかったにちがいない。しかし、この「身体」はなかなか曲者である。「まなざし」とは何かと問うたとたん、そこに見えるものはただの目だけ、それと同じような事態が身体にも起こり得るからだ。「身体とは何か」と主題化することによって、かえって「身体」はするりと逃げていく、というわけである。要するに、ここで問題にしているのは生身の身体ではなく、逃げ去る「身体」、こう言ってよければ、見えない「身体」のことなのだ。身体そのものを捉えると言うより、そのあり方を記述すること、西堂氏の提案の眼目はまさにその点にあった。ひいては、それが「言葉を考えるために身体を用いる演劇」であり、とりもなおさず、「根本に立ち返ることがかえって身体を問うことにならない」のであろう。「いま改めて、身体を問う」ことの要請は、60年代に演劇界を駈け抜けていった身体とは明らかに違う「身体」の現出に応じてのものである。この座談会において、この「身体」は私たちの陥りやすい思考の仕掛けに足元をすくわれて、決して姿を覗かせることはなかった。西堂氏のアジアに向けられた視線も、もちろん日の目を見ることなく、闇から闇に葬り去られたのは言うまでもない。しかし、この捉えどころのない「身体」はこのフェスティバルにおいて、演技者の身体を通しすでにその姿をあらわしていたのだ、消費されつつ増殖するものとして。
 ストアハウスカンパニーの『Territory』は一糸纏わぬ身体を曝け出しながらも観る者をして「身体とは何か」と正面切って問うことをはからずも回避させる。「歩く、転ぶの二つの動作を指定して役者にどう「もの」とかかわるのかという課題を課しただけ」と演出の木村氏の言にもあるように、たしかにそのシンプルな構成は身体性といった勿体や身体の神秘性といった謎めいたものを一切削ぎ落としてある。かといって、そこにただある、ありのままの身体をことさら強調したわけでもない。もっと身近である。舞台中央に、うずたかく盛られてある廃棄されたもの、照明の帯に浮かび上がる塵埃、開演と同時にそういったものの静謐な横溢を掻き乱すかのような、点になり線になる演技者らの身体の幾何学的な運動。その運動が即興であるのか、計算されたものであるのかは必ずしも問題ではない。歩き、踏みしめ、転んでは立ち上がるだけの反復、そのむなしい繰返しを通してしか維持し得ない身体の労働の、いま目の前で起こっていることが問題になっているのだ。他の物を搾取し不要になったものを排泄し続ける身体はまた他の排泄したものを食べ続ける「身体」でもある。うち捨てられた靴や帽子などの屑の中から、いきなり裸体が覗いたときの驚きはそんな身体のおぞましさを見てしまったからだろう。もちろん無機質のなかから突如としてあられる裸体にセクシャルな驚きがあったことを隠そうとはしない。しかし、失われたものの場に姿をあらわした裸体はもはや死と対比されるものではなかった。性を剥奪された裸体、投げ捨てられたものとしての身体であることに驚かずにはいられなかったのだ。みずからの「身体」を消費しながら廃棄されたもののなかで増殖する、いわば死に続ける「身体」を演技者の裸体の向こうに見る思いがしたからなのであった。
 ビニールの袋に包まれそのビニールを引きちぎりながらその外へ出ようともがいている裸体の演技者の姿を、当然のように誕生のメタファーとして捉えることもできる。死と再生のテーマが垣間見えるところである。しかし、この作品の意図は、ひょっとすると演技者さえも意識し得ないかたちで、別のところにあるのかもしれない。おそらく、そうだろう。つまり、これは誕生でもなければ再生でもない。むしろ、流産する「身体」ではないか。一度も姿をあらわしたことのない「身体」の現前。流産を繰り返し一度たりとも誕生したことのない「身体」が演技者の身体を借りてあらわれたのではないのか。では、この「身体」とは一体なんだろう。だが、こう問うことの愚を痛いほど判っているからこそ彼らは転んでは起きて歩くといったむなしい作業を繰り返したのではなかったのだろうか。それは何かを解ろうとした行為では決してない。公演を終えたところで彼らは何も解らない。たとえ解った、そう思い込んだところで話にもならない。それが嫌というほど判ったからこそ、彼らはみずからの身体に起きたことを自分自身で捉えられない、苛立たしい事態に甘んじているのだ。ここに至れば、もはや問題になるのは演じている側の身体ではなく、むしろ観る側の身体にあることは自明だろう。演技者が目的行動といったセオリーを無視するどころか、みずからの身体の示している事すら分からないまま演ずることの無償性に支えられて、はじめて観る側の身体がかれらの「身体」を受け取ることができるのだ。そのように考えなければ、この曖昧な「身体」は捉えようがない。
 したがって、『Territory』と題されたこの劇が観客にどのように受け捉えられようと作る側の関知することではない。たとえ涙を流そうが、笑おうが、はたまた怒ろうが、演技者にはいっこうに差しつかえない。演技者にはもの悲しさも恥ずかしさも何もない、そこに彼らのねらいがあったのだから。たとえ観客の思い入れたっぷりな感想を聞いても、辛らつな批判を聞いたとしても、演出家はこれらをつぎの作品に生かそうなんて思いも寄らない。演出家には観客の感想に興味はない、彼の関心はひたすらその感想を惹き起こしたプロセスにあるのだから。つまり、言いたいのはいったん作品が作り手から離れたかぎりは全てを観客の手に委ねる、といったふうなことでは無論ない。とはいえ、演技者や演出家にインタビューしたわけではないのだから、これはあくまで推測である。ただし、観客席に居てまわりの空気が凍りついていた。彼らの劇は観客の「身体」を窒息させる、これだけは確実にいえることである。何かに没入しているというより、異様なものを目にしたときに感じられる肌触り。思考の停止。何か感情の発露があったとしても、それが生じた意味が分からない。いや、感情それすらも分からないのかもしれない。そこにあるのはストーリーの中の登場人物に感情移入している身体とは明らかに違う「身体」なのだ。特異な出来事に遭遇して、こころは強く触発されているにもかかわらず、いま起きていることを対象化できない、言うなれば、経験することがないまま経験された事態である。したがって、観客が観劇後に言う、書く言葉は後からくっつけたもの。それは空白の埋め合わせにすぎないし、いわば虚構だと言ってもいい。だからといって、それがだめだといっているのでない。そうではない。つまり、それがまさしく日常の「身体」のあり方、身体と言葉の存在の仕方だと言いたいのである。ストアハウスカンパニーの『Territory』は私たちが日頃意識することもなく平然とやり過ごしている「身体」を、その存在の仕方を、演技者の身体を通して観客の身体のなかに浮かび上がらせてくれたのである。
 私たちが普段意識している身体とは違う身分の「身体」が存在する。しかし、おそらくほとんどの人がその「身体」を意識することなく生活している。その「身体」はたえず消費されつつ増殖するものとして私たちの身体を容赦なく駆け巡っている。日々の欲望に気息奄々としている生身の身体は、しかし、その欲望の主体が実はこの「身体」であることに気づかない。冒頭に触れた座談会のなかで西堂氏が紹介した、外人の俳優が背中を叩かれるたびにジンムから始まる日本の天皇の名をつぎつぎに吐き出す『解体社』のパフォーマンスは、ひっきりなしに入れ替わる言葉=情報の空しい繰り返し、
「身体」は死に続けることによって生き残るが、身体はいずれ死に行く運命にあるということ
を如実に物語るとともに、その繰り返しを通してしか維持できない「身体」が実は私、乃至は記憶という名に事寄せて行う詐術を見事に暴き立てている。『Territory』の最終部では、身ぐるみを剥いだ、あたかも一本の葦のように寄る辺なき姿となった、それぞれ4人の演技者が、屑のなかから手当たり次第に衣を探してはそれらを貪るように身に着けていく。ある者は片方の靴を履き違え、ある者は大きすぎるほどの服を着て、薄暗い舞台の中、ずばり「情報に汚染された身体」そのものが、あてどなく彷徨い歩く。そこに観客は遠く彼方から身体の呻き声を聞き、同時に「私=主体」という亡霊を見ているはずである。これこそ何のいさおしもなく与えられた贈与ではないか。そして、4人ともに倒れて幕になった。