劇評集

[21世紀演劇のパラダイム(2)]
実験演劇の現在~2002年春
西堂行人 ―図書新聞掲載より一部抜粋―
 
ストアハウス・カンパニーの『テリトリー』もまたゴミの山から出発した。ただしそれは衣服や紙の山である。そのゴミ山の周辺を歩く者たちがいる。やがて彼ら五人の男女はそのゴミ山を踏みしだき、秩序立ったものが崩れてカオスと化していく。そのカオスの中からボールが一つ転がり出てくるシーンがあるが、その光景にはホッとさせられるものがあった。ボールはかつてここで生活が営まれていたことの証しだからである。だが散乱したゴミの中に彼らは倒れ、ゴミと一体化し、ゴミそのものにまみれていく。やがて彼らは手探りの中からビニールを引っ張り出すと、その中で黒い服を脱ぎ裸になる。ビニール越しに見えた肉体はピンクがかって眩しいほどだ。 
 その裸体は恍惚感に溢れ、陶酔状態の忘我でもあれば、深い内省の果ての表情のようにも映し出される。日常の身体はビニールという膜を通すことで、まったく別のものになり変わっていくのだ。ビニールの中の裸身は胎児かもしれない。胎児は母の膜に爪を立て、皮膜を蹴破って産まれてくるのだ。生まれてくることからして闘いだろう。舞台ではビニールを破って彼らもまた外に出てくる。やがて彼らは思い思いに服をまとい、去って行く。着衣することで彼らは社会化されたのだ。
 ビニールとはこの劇のタイトルでもある「テリトリー」と不可分の関係にあるだろう。至福でもあれば、そこに安住することを許されない両義的な「テリトリー」。時にそれは抑圧的な装置にもなりうるだろう。ビニールを破る寸前は、まだ社会化されていず、自我の確立もままならぬ保護された子供たちの比喩かもしれない。彼らは自分を覆う外部とぎりぎりのところで自分の居場所つまり「テリトリー」を獲得することが可能なのかもしれない。その中で自我を守り、脱衣して自我=自己を確立する。そこからの出立は、大きな障害との闘いを意味するかもしれない。
 わたしたちはここでも物言わぬ身体にさまざまなイメージを重ねてみることができる。
たとえばゴミ山の廃墟とは、9・11テロ爆破以降の倒壊したビル群の瓦礫のヤマを連想させる。事実、演出家の木村真吾はパンフレットでこの光景について触れ、劇団員と見たこの光景は自分たちの悩みを吹き飛ばす経験だったと述べている。「テリトリー」とは都会の中で、必死に自分の居場所を守ろうとする者と、そこから脱出しようとする者の葛藤の場所に転喩される。わたしたちを覆う現実は、たしかに重く辛いものだ。日々その葛藤は大文字で進行する歴史の歯車のなかで自分の居場所を見出せない。それを取り戻そうと、わたしたちは必死にあがく。その小さな物語が歴史に遭遇する瞬間をこの舞台は切り取ろうとしている。
 ストアハウス・カンパニーはここ数年急速に力をつけてきた劇団である。1999年より、自分たちの小劇場で「フィジカルシアター・フェスティバル」を主催し、翌2000年にはソウルで第二回が開催された。韓国やアジアの各地からいくつかの劇団を招待する小さなフェスティバルだが、コンセプトがはっきりし、毎回テーマが鋭く提出されている。「フィジカルシアター」というテーマを自らに課すことで、彼らは表現をきっちり見据えるようになってきた。モノと身体、言語と身体の関係を柔軟に追求する。身体は言葉を発さなくともすでに一つの言語であることを、この舞台は立証している。