続 頭寒足熱            ストアハウス代表 木村真悟

2020.2.2
新世界「プリンセス」上演によせて

「性」のことを考えることは難しい。
というのは、ここで語られている「性」は、わたしは「男」であり、あるいは「女」であるいった「性」の区分のことではないからだ。もちろん、それはそれで難しい話であることは間違いないのだが、「新世界」の「プリンセス」で語られる「性」は、もっと直接的で生々しい。
たいていの場合、流行歌で唄われるように、「男」と「女」の間には、「暗くて深い、川がある。」のである。そして、その川を、「誰も渡れぬ川なれど、エンヤこら、今夜も舟を漕ぐ。」のである。
「黒の舟歌」。私の大好きな歌だ。
しかし、「プリンセス」には、この歌は似合わない。
「プリンセス」に流れる歌があるとするなら、それはどんな歌なのだろうか。考えてみる。しかし、今のところ、私には思いつかない。それは私が日本人だから。韓国人ではないから。答えは出ない。
「プリンセス」は、「男」と「女」の物語を拒否している。それは確かなことだと思う。でも、何故。と思ったりもする。
基本的に、私は怠惰だ。日々変わり続けていく自分自身や社会の在りようを、丹念に記述し考え続けることには膨大な労力を要する。それよりは、恐ろしく鈍感になって、昨日と今日の違いについて気付かないふりをして生きていくほうがはるかに楽な生き方なのである。そこに、私たちが、アダムとイブの神話の中を無自覚に生きている理由がある。
そんな愚痴にも反省にもならない考えが、頭をよぎったりもする。
ふと、気がつく。
「プリンセス」が問題にしているのは、「男」や「女」ではなく、「男根」や「女陰」であることに。つまり「プリンセス」は、「ペニス」や「ヴァギナ」の物語なのだ。
なんとなく頭が回り始める。
私たちは、当たり前のように「ペニス」や「ヴァギナ」を所有している。というかそのように思い込んでいる。つまり、「ペニス」や「ヴァギナ」はあくまでも「私」のものなのである。だから、私の所有物であるところの「ペニス」と「ヴァギナ」の交わりを私たちは「愛」と呼んだり「強姦」と呼んだりするのである。
しかし「プリンセス」で語られる「ペニス」や「ヴァギナ」の所有者は「私」ではない。そこでの所有者は「日帝時代」であり、「アメリカ軍の占領」であり、「ベトナム戦争」であり、「妓生観光」であり、そして現在まで続く「売春制度」である。
そこは、「愛」もなければ、もちろん「強姦」すらない世界だ。そこにあるのは「搾取」だけだ。いやもしかしたらそこでは既に「搾取」すら意味を失っているのかもしれない。
今や、売買の権利をも奪われ、資本主義のシステムの外側で、ただひたすらに意味を失った「ペニス」や、あるいは意味に守られた「ペニス」を入れるための「穴」と化した「ヴァギナ」は、悲鳴を上げることもできないのだ。
作・演出の金秀貞氏は、「ヴァギナ」の所有者を、「孔主(コンジュ)」と名付けた。「孔」は、韓国語では「コン」と読み、意味は「穴」である。また、「コン」の音には「公」の意味があり、「公主(コンジュ)」は、韓国の家父長制の中で大事に育てられたお嬢様の意味であり、普通、韓国人が「コンジュ」の音韻で思い浮かべるのは、「公主」であると聞いた。
昨年の5月、ソウル大学路での「プリンセス(原題-公主たち)」の観劇後、タイトルの意味の説明を受けながら、あらためて「ヴァギナ」の引き裂かれた意味のことを考えたことを思い出している。


2020.2.10
私はとっても可哀そう

私は、とっても可哀そうだ。
つくづく思う。
私はとっても可哀そう。
ともかく、私には居場所がない。
というか、
勝手に居場所を変えられる。
今日はアメリカ、
かと思えば、気がつくと、ソウルの日本大使館前にいたりする。
この前なんか、愛知トリエンナーレの展示室から追い出されてしまった。
だいたい、私を作ったのは誰なのか。
私は、何にも知らないのだ。
知らされてもいないのだ。
私は、とっても可哀そうだ。
日本へ行った私は、唾を吐きかけられるかもしれない。
腕をもがれるかもしれない。
でも忘れられるよりはいいのかもしれない。
だってそのうち私は忘れられてしまう。
きっとそうだ。
忘れられていくのは、私だけじゃない。
私を作った人も、
私を連れまわした人も、
みんな、みんな、忘れられていくのだ。
だから私は、
日本へ行ってみようと思う。
だいたい、私は言葉がわからない。
何を言われたって平気なのだ。
私は、迷子だ。
永遠の迷子だ。
それが私の運命ならば、
勇気をもって、行ってみる。
ことにする。
日本へ。


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