劇評集

日常に潜む何処にでもある溝にはまる人々
Wonderland 2004年より
葛西李奈
 
 ひとつ咳をしたら、客席から劇場の隅々にまで伝わってしまうような静寂の中、役者は互いに肉体を放棄したかのように舞台奥に積み重なっている。薄暗い照明にてらされて、誰が誰の顔なのかもわからない。
 私たちは彼らの姿を意志を持って確認している。演出の意図を探ろうとして頭をめぐらせながら、次に起こることを予測する。都会の孤独に疲れ果てた老若男女が互いを貪り合い飲み込んでいく姿を思い浮かべる。舞台からは皮膚に染み込んでくるような冷たさがひしひしと伝わってきていた。
 
 客電が消える。舞台は薄暗い。ようやく役者の動きが見えるぐらいだ。彼らはようやっと目を覚ましたかのように起き上がり、うつろな目で地に足がついていることを確認するように歩き出す。それぞれが、ばらばらに、それぞれの視点を保ち、だんだん歩調は早くなり、照明も明るくなり、一人にもう一人、さらにもう一人と連なりを作っていく。なんとか無視をしようとしていた他の人々も、その状況に耐えることが出来なくなり、連なりに加わる。加われなかった最後の一人が突き飛ばされ、地に身体を打ちつけ、苦い表情を浮かべる。なんとか抵抗しようともがくが、誰も助けてはくれない。仕方なく連なりに加わる。仕方なく加わるが、連なりの一人となった今は違和感なくその場に存在している。何も問題はないように見える。しかし、それぞれに破綻が生まれてくる。もともとの自分のリズムに逆らって動いているのだ。どうしようもない痛みにうずくまる人々。その痛みを振り払い連なりを作ろうとする人々。そして脱落者。不調和音に舞台が飲み込まれる。ぼろぼろになっていく人間の姿が浮き彫りにされ、最終的にはうずたかく積まれていた洋服の山に助けを求めるようにして人々はしがみついていく。
 
 舞台に洋服がちらばっていく。人々の身体に絡みついた洋服が私達の目の前にさらされていく。舞台の上をごろごろと転がりながら胎児のように目をつぶり、自分の在りかを確かめているようだ。自身が身につけているものをはぎとっていく姿は、まるで生まれ変わろうとしているかのよう。
 
 なんと集中力を用する舞台なのだろう。気付くと動けなくなってしまっている自分がいる。何故か、自分もその舞台にいるような気になるのだ。役者の視線はまっすぐで、澱んでいて、まるで私が日々目にしている電車の中のサラリーマンではないか。私が無意識に恐れている社会に押しつぶされそうになっている人々ではないか。それは、私なのか? 問いは頭の中でぐるぐる巡る。役者の熱気がこちらまで伝わってくるようだ。いつの間にか冬だというのに私は汗をかいていた。台詞の一切無い舞台というのは、以前観た「上海異人娼館」と同じように私達の想像力をまんべんなく刺激してくる。
 
 舞台の人々は、ストッキングを頭から一人一人かぶっていく。顔が再び見えなくなる。のっぺらぼうがたくさんいる。さきほど、最後まで抵抗していた人物も、他の人物にストッキングをかぶせられ、苦しそうにもがく。誰の表情も見えない。静寂。私は逃げ出したくなっている。人間が人間ではなくなる瞬間をさらされているようだからだ。最終的に彼らは互いにストッキングを引きちぎり、足元に落ちている洋服に着替え、日常に帰っていった。ストアハウスカンパニーは、毎回このような芝居を作っているとのことである。役者の肉体から発せられるものの威力を存分に信頼している劇団のようだ。海外公演もなしているとのことで、これから私が注目していきたい劇団の一つと相成った。