メタモルフォーゼのメタドラマ
ストアハウスカンパニーの「縄」について 
副島輝人 2000年11月23日
 
劇団ストアハウスカンパニーは、何故台詞のない演劇を上演するのか。演出者の木村真悟は語る。
「ある時、韓国の劇団の演劇を見ました。僕は韓国語が全く分かりません。日本の演劇なら、極端な話が眼をつぶっていても、言葉を聴いていれば劇の展開は分かりますが、言葉を知らないから、俳優の動きを必至に見つめて、筋書きを読み取ろうとしました。その時、俳優の肉体が如何に雄弁に聞こえない言葉を語っているかについて考えたのです」
こうしてストアハウスカンパニーは、二年前から無台詞演劇の世界に突入した。この実験的方法は、まぎれもなくメタ・ドラマを志向する道である。俳優である人間と、小道具である物が、ステージ上で格闘し、通常のドラマならぬ<もう一つのドラマ>を浮かび上がらせる。
メタドラマであるから、筋書きや主張を強要されることなく観客の意識は解放されて、自由にそれぞれのイメージで展開されるドラマを楽しむことが出来るのだ。虚構の空間はステージの上だけではなく、観客もまた客席に座ったまま個的な虚構を意識の上に走らせている。創り手と受け手が、初めて持ち得た、劇場空間への共犯関係と云えるだろうか。ステージで演じられているメタドラマとは少し異観かもしれないメタドラマが、客席で観客の数だけ発生しているらしい。それは、ステージを観ることによって生まれたものだ。例えば、こんな具合に……。
 
七人の俳優たちが、ゆっくりとステージに登場する。日常性に対する違和感を内に抱えて、脱出するために何かを探している感じ。絶えきれなくなったように歩き出す。バラバラだったのが、やがて一列縦列になり、憑かれたように次第に速く、歩調を揃えて靴音が鳴る。来るべき修羅の時空間への予感が漲り、オーケストラのイントロダクションのようだ。一人、二人と縦列から外れる者がでてくるが、何時しか縦列に復帰している。自由な整然。だから先頭を行く者が随時入れ代わる。長谷川龍生の初期の詩「パウロウの鶴」を思い出させる情景である。鳥の群に似た動き。
ふと、一人が縄を見つける。そっと一本を取り上げて手にかざし、またそのまま歩き続ける。これは日常からの脱出のために役立つ何かかもしれない。いや、そうに違いない。呪物なのかもしれない。他の者たちも、次々に一本拾って、手にかざして歩く。役に立つものという思いが確信に変わったかのように、更に縄を拾う。どう使ったらいいのか分からないが、とにかく拾って歩くのだ。抱えられる限りの縄を拾って捧げ持って歩く。顔が大量の縄に隠れるほどだ。だが、この時すでに彼らは日常空間から踏み出して、異次元(縄世界)へと入りつつあるのだ。
抱えて歩く大量の縄と、他の者が持つ大量の縄が絡み合って、人間の行動を圧迫し始める。縄世界で、縄が自己主張をするのだ。縄が歩いているのか、人が歩いているのか。絡まり合う縄にもつれて、倒れ込む人間たち。縄に埋もれて、のたうちまわる。食人縄を連想させて、一瞬恐怖が走る。
もつれた縄の山から必至になって脱出するが、ここは異次元の世界。未知の惑星に降り立ってしまったような恐れ。歩き始めてからここまで、すさまじいスピード感だった。だがこの暴力的とさえ思えるスピード展開は、まだまだ続きそうだ。再び一本の縄を拾って、それを掲げ、その下を潜ってみる。ここでハインラインのSF小説『時の輪』を思い出した。タイム・パラドックスをテーマにした名作である。一つ輪を潜ると異相の世界に迷い出る。潜った輪をもう一度逆に潜れば、元の世界に戻れるのか。いや、僅かでも時間が経っているから、もう駄目かもしれない。どうしたら戻れるのか。こうなれば、向こうに見えている別の輪を潜ってみよう。こうして更なる異相の時空間に入り込んでしまう。異相の蟻地獄。決して帰って来られない浦島太郎。ステージでは、七人の俳優が次々と輪くぐりを続けている。更に、自分の縄だけでなく、他者の縄をも潜り抜けている。
私の意識も時間の輪をすり抜けるように、幼い日の縄遊びの記憶を蘇らせる。ナワトビ、デンシャゴッコ、アヤトリ……。この芝居では、決して縄を飛ばないで、ひたすら潜るのみである。縄の異空間は地底の王国。だから縄の上を飛ぶことは絶対に許されないのだ。デンシャゴッコについては、間もなく恐怖の閉鎖空間が出現する。アヤトリを遊んでいて、うっかり取り違えると、突然に予定調和を外れた異形のフォルムが出現する。それがまた面白いところだ。元に戻る場合と、戻れないで指を締めつけられる場合とがある。
いつの間にか、大きなループが存在していた。その大型の輪に向かって、七人が一団となって輪潜りを続ける。こちらから向こう側へ、向こう側からこちら側へ。大型の輪は四角いフレームとなって、しかしゆらゆらと揺れている。ゆっくりと角度を変え、上下のラインが逆になると、向こう側がこちら側になっている。これも異相の転換。もはや潜り抜けることが不能となる。四角いフレームの中に、ガラスではなく鏡がはまったようにも思える。そうなれば、ジャン・コクトオの映画『オルフェ』。鏡の裏側には死の国が広がっているのだが、表側の生の国。オルフェはユーリディスを探して、鏡の裏側に入っていくのだ。これはイザナミを現世に連れ戻そうと、ヨモツヒラザカを超えて行き来したイザナギと同じ行動だった。この神話の類似性は、全く不思議という他ない。ただ云えるのは、古代の日本とギリシャは、同じ多神教であったということだけだ。形成された文化の質は、意外に近いのかもしれない。和辻哲郎は、アポロンに思い入れながら『古寺巡礼』を書いたのだった。しかし私の興味は、何故か桜花の美学の近くに立つ役行者や折口信夫の方にある。
これほど私の意識を脱線させ、連想をあらぬ方へと発展させるのは、「縄」の舞台が優れたものである上に、確かに私好みの表現であるからに他ならない。そしてステージに眼を戻すと、すさまじいシーンが展開されていた。七人が大型の輪の中に取り込まれていて、この閉鎖空間の中を走り廻っているのだった。身体がぶつかり合いそうな、閉鎖空間内での全力疾走。縦に横に斜めに、互いに僅かな隙間を狙って走り抜けては輪の縄に行く手を阻まれて弾き返される。狭い輪の中にひしめき合う七人。汗と荒い呼吸がロープと闘っている。閉鎖から抜けようと、自由に向かっての短い全力疾走が、またも縄に阻まれる。縄も七人のあがきに、アメーバーのように刻々形を変えている。やっと一人、また一人と閉ざされた空間から脱出し、全力をふり絞った後の肉体からは烈しい喘ぎだけがもれている。
この荒行は、人が縄にメタモルフォーゼするための通過儀礼だったのだろうか。人間の顔であることを恥じるように縄を顔に巻きつけて隠そうとする七人……いや七本の縄。変身はすでになされている。縄の顔になった縄人間たちは、ゆっくりと光の中に顔を差し入れ、縄人間であることの確認を求める。海の波がよせるようなリズムで、光の中に入ってはまた引いて行く。そして更に縄を顔に巻きつける。安部公房の世界を思わせる縄人間たちのゆったりした動き。
突然、闘争が始まる。顔に巻いた他者の縄仮面を、互いにむしり合い引き剥がし合う闘い。自分だけが本物の縄人間だ、お前はただの人間であることを仮面を剥がして立証してやる、ナニサッ、コンチクショー、ニセモノヤローメッ。面の皮をひん剥いて、しかし縄の仮面を剥ぐということは、縄人間の皮膚をむいていることではないのか。もはや、縄と人とはメビウスの輪をたどるような関係になっているのではなかったか。激しい闘いの果てに全員が仮面を失って、縄人間の素顔を晒す。それを互いにじーっと見つめ合って、縄なのか人なのか、それとも縄人間であるのかを確かめ合うのだ。手を触れてみる。寄り添う。全員が寄りかたまれば、縄のようにもつれ合うというアイロニー。
何か、球形のものが幾つも降ってくる。それは縄人間の卵だろうか、胎児だろうか。そっと近寄って取り上げる。縄のように細長くはなくて、球形だが、やはり縄に巻かれている。それぞれの方法で卵を孵す。胎児を育てる。小児に食物を与えるように、体中いっぱいに縄を詰め込んで、みるみる育って一人前の縄人間となる。そこに夥しい数の縄人間たちが出現してくる。無数の縄人間たちが行進し、倒れて死んで、たちまちまた生まれるのを繰り返す。時計の歯車が一つ省かれたように、時間の進行が速くなる。死に、生まれ、また死に、また生まれる縄人間の社会と歴史を、時間軸の上に立って俯瞰している中に、全員が死んで動くものがなくなり、縄人間は種として絶滅したのかと、ほっとしたような、しかし少し暗い気持ちになったところで、ステージは暗転。この素晴らしいメタドラマの演劇は終わっていく。